私と写真と点と線と

小学生の頃、父が、家にあった古いペンタックスの一眼レフの操作方法を教えてくれて、写真を撮る面白さを知りました。

そして、団地の写真クラブの人に教えを受ける機会があり、写真の引き伸ばしを実地に経験させてもらったこと。親が毎月買ってくれていた学研の「科学」の付録に写真セット(原始的なカメラと印画紙と現像液などのセット)が付いてきて、それをきっかけして、写真の写る理屈を覚えたこと。結果、単純なカメラであれば比較的簡単に自作できることがわかり、ボール紙と適当なレンズを使ってカメラらしきものを何台も作ったこと。従兄(当時、大学の写真学科に通っていた)が鉄道の撮影旅行に誘ってくれて、それ以来、鉄道写真を中心に日常的に写真を撮るようになったこと。年賀状シーズンになるとその従兄の家に押しかけて引伸機を使わせてもらっていたこと。よくもまあ、これだけいろいろなきっかけが整っていたものだと、振り返ってみて感心します。

中学から高校の頃までは、写真を撮影し、そして現像・焼き付けをすることに多くの時間を費やしていました。この時期は、誰かに習ったというよりは、本を読んだり失敗したりしながら、体系的にではなく試行錯誤をして、頭と身体で写真を自己流に身につけて行きました。


写真(銀塩写真)のプロセスは、露光と現像処理に分けられます。

現像処理の部分は化学処理であって、液温や手順を守り、正確に、手抜きをせずに仕上げないと良い結果が出ず、安定もしません。処理が悪いと写真の保存性にも影響が出ます(数年で黄変するんですよね)。使用する機材には、消耗品を含め、ある程度の質のものが必要であり、機材の質の悪さを使い方でカバーするのは限界があること。しかしそれほど高価なものを使わなくても、それなりに結果を出せること。一部の機材(例えばカメラ)だけを上質なものにしてもあまり結果に結びつかないこと。液温の管理や引き伸ばし時の露光時間管理を人力で正確に行なうのは相当の注意力が必要であって、そういうことは機械にまかせるべき箇所であること。35mmフィルムはトリミング(撮影後に写真の一部分を切り出して余計なモノをカットすること)をすると画質が荒れてしまいやすいことから、撮影時に構図を一発で決めて、焼き付け時にはトリミングしないのが最善であること。人間の目の特性とフィルムの特性との間にはかなりの差があること(健康な人の目のほうがだいたい高性能)。露光(撮影)に関しては、どこにフォーカスするのか決めること(構図やピントの決定に限らない、何を際立たせるのかということ)は、どこを捨てるのか決めることと同義であること。(ここは異論あると思いますが→)写真の出来はほぼ撮影の瞬間に決まっており、後の処理は、努力してもせいぜいそれを劣化させないようにすることくらいしかできないし、それ以上のことを望んで失敗した写真を変える努力をするのは撮影時の直感を否定することであり間違いであること。失敗は失敗として、ありのまま受け入れること。撮る行為は観察することでもあるので、受験の時期など実際にカメラを触っていないときであっても意識をしているだけで上達することがあること。撮ったものの重みは時の経過とともにどんどん変化して行く(たいていは重くなって行く)こと。このようなことを覚えました。特に、現像のプロセスについては笹井明氏の「新時代の黒白フィルム現像」の影響を、撮影時の向き合い方については写真家の丹野清志氏の著作の影響を、大きく受けています。

こうして高校卒業まで、写真にどっぷりと浸かる中で、意図していたわけではありませんが、技術との付き合い方の基本を学んだように思います。


高校卒業後、大学や専門学校で写真を学ぶという選択肢もありました。しかし私はそれをしなかった。きっと、撮影そのものを追求するつもりが無かったのだと思います。好きな鉄道や身近な人や風景の写真は撮っていたものの、それ以外、何を撮ったら良いのかわからなかった。特に問題意識を持って社会を見ていたわけではありませんし、自分の考えなど無いに等しかった。自分の見た風景をカメラで切り取り、自分の手で現像・焼き付けをし、紙に定着させること。その技術が面白かったのであって、何かを表現したいなんて思っていなかったのですから。

そしてそのうち、あんなに好きだったはずの写真も撮る枚数が激減して行きました。自由になる時間と集中力を目一杯つぎこむことで回していた撮影・現像・焼き付けのサイクルが維持できなくなったのです。自分のことをカメラの設計をしたい人なのかと思って機械工学の道に進んだもののコンピュータや通信の面白さに心を奪われてしまい、撮ったまま、現像できないフィルムがどんどんたまって行き、そうこうしているうちにカメラを持ち歩くことにも意味を見いだせなくなり億劫になり、そのままフェードアウト。


その後数年が経ち、これもやはり自己流で、少しはプログラムが組み立てられるようになりました。パソコン通信を当たり前に使うようになっていた頃、行きつけだったBBSで、Turbo Pascal という言語でプログラムが組める人(アルバイト)募集の記事を見て応募する気になり、面接に行った先で出て来たのが @kaorusaito さん。農学部の出身なのにコンピュータが使えてデータ処理を試みている、知らなかった世界の人でした。当時、まだ大学(短大だけど)に在籍してはいたものの全く通っていなかった、単位も全然足りていなかった私は希望の進路を聞かれて答えられるわけもなく、「じゃ、いま決めるんだね」とニヤっと笑いながら言われたのをなぜだか覚えています。

そこで割り当てられた仕事が地理情報メッシュデータの管理と加工。地理情報とかメッシュデータとか、当初は何のことやら全然わかりませんでした。でも、鉄道写真の撮影地を決める必要から地図を見て地形を読むことはふつうに出来るようになっており、時刻表の数字を追って熟読した経験からデータを読むということにも対応できました。型にはまった管理をされない、出社時刻もうるさく言われない放し飼い状態で仕事をさせてくれて(これ、多くの社員・アルバイトがいる中で、自分だけが特別に、なし崩し的に認めてもらっていたのだと思います)、遊んでいるんだか仕事しているんだか区別がつきません。でも、@kaorusaito さんの意図を汲むことを心がけ(不思議と、言っていることが判ったんです)、その実現手段の詳細については自分で判断をし、何らかのアウトプットを出し続けていたら喜んでもらえました。


# 続く、かもしれない